親鸞会との問答(三願転入について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
13.三願転入について

親鸞聖人  聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長  全人類は19願から始めなければならない


これに反論した親鸞会の回答
 『なぜ生きる2』ですが、支離滅裂なので内容を略



これに反論した回答
飛雲」の問答


問い


親鸞聖人は20願について「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」(教行信証化土巻)と仰っています。19願の人々に、折れず曲がらず速やかに20願へ進めよ、ということですから、すべての人が19願を通るように親鸞聖人が勧められているではないですか。


答え


20願を勧められたお言葉が、なぜ19願から始めなければならないという意味になるのですか。三願転入の文でも同じで、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。」とは、七高僧方のお勧めによって、19願を出て20願に入った、ということであって、七高僧方が19願を勧められたのではありません。
要するに、七高僧方も親鸞聖人も19願を勧められてはいない、ということです。



問い


親鸞聖人は「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり」(正像末和讃)と仰って、19願から20願まで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか、と声価されています。親鸞聖人の教えが、まさに三願転入である明証ではないですか。


答え


これは、『大無量寿経』にある20願成就文を言い換えられたお言葉です。『三経往生文類』にはこの和讃に当たる部分を、「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。」と紹介されています。和讃と20願成就文とが見事に対応していることがお判りだと思います。
それと、これを含む前後の和讃は誡疑讃と呼ばれていて、19願と20願を信じることは仏智不思議を疑うことだ、と親鸞聖人が厳しく誡められたものです。
親鸞聖人の教えが、まさに三願転入を勧められていない明証ではないですか。



問い


先の和讃で「すぐれたり」とあるから、なんと素晴らしいことであろうか、と親鸞聖人が20願の行者を褒め讃えられていることになるのではないですか。


答え


これは20願の行者の心を表現されたものです。
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と仰っていますように、諸善を捨てて自力の念仏1つを選び取るのが、20願の行者です。
『阿弥陀経』ではこれを「一心」と説かれていますが、その意味について、「二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。」(教行信証化土巻)と教えられています。諸善がまじらない心ですから、念仏は諸善とは比べものにならないと思う20願の行者の心を、親鸞聖人は「すぐれたり」と仰っただけで、褒め讃えられた訳ではありません。



問い


弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっています。
その文証が、
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
」(教行信証化土巻)
です。


答え


御文の前半の意味が抜けています。「半満・権実の法門」は聖道門のことですから、聖道門に入っても、「偽なるもの」「虚なるもの」ばかりである、ということです。そして後半の「ここをもって」に繋がりますから、阿弥陀仏の19願と釈尊の『観無量寿経』定散二善は、聖道門に入っても虚偽なるものに対して説かれたと、聖人は仰せになっています。



問い


弥陀はすべての人を、要門・仮門より誘導して、無碍の一道・絶対の幸福に救い摂ってくださるのです。その文証が「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)です。意味は、阿弥陀仏が十九の願に勧める善を、釈迦は『観無量寿経』一巻に定善・散善の二つで解き明かされている、です。


答え


定散諸機をすすめけり」が故意に省略されています。「定散諸機」について高森会長は「弥陀の救いを求めて、定善や散善を実行する人々」(なぜ生きる2)と言ってますよ。つまり、定散二善を実行できる人に対して、釈尊は定散二善を説かれたということですから、定散二善を実行できない悪人に対して定散二善を説かれたのではないことになります。
親鸞聖人は、定散二善を実行できない悪人のことを「逆悪の機」といい、「定散諸機」と区別されています。「定散と逆悪とを矜哀して」(正信偈)。



問い


「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということです。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことです。


答え


法然上人は「いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。」(選択本願念仏集)と仰っています。あるいは「また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。」(同)とも仰っています。
これを承けられて親鸞聖人は、念仏と諸善とを比較なされて、「順逆対」「選不選対」「有願無願対」(教行信証行巻)と教えられました。念仏は本願に順じ選び取られた行ですが、諸善は本願に背いた捨てられた行である、とまで仰っています。
もう一つ言えば、「おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。」(教行信証化土巻)ですから、七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」「万行」のことです。



問い


「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということで、「諸善」や「万行」の「行」を捨てよではありません。


答え


親鸞聖人は「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」(教行信証信巻)と仰って、衆生の修する「諸善」や「万行」の「行」を捨てよと仰っています。
また高森会長は七深信中の第五深信を「第五には、唯仏語を信じ決定して行による。」(なぜ生きる2)と紹介していますが、この元は「仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て」(教行信証信巻)ですので、「諸善」や「万行」の「行」を捨てよと深信したのが、真実信心です。



問い


無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。」(なぜ生きる2)の通りではありませんか。


答え


これは20願の行者のことではないですか。
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」(三経往生文類)と、念仏を選んで諸善を捨てるのが20願の行者です。
また「経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(教行信証化土巻)と、諸善ではわずかな功徳しか積めないと嫌い貶めて、一心に念仏に励むのが20願の行者です。
20願まで進んだ行者を「なんと素晴らしいことであろうか」(なぜ生きる2)と褒め讃えると言ったのは嘘ですか。



問い


雑行を捨てよとは、五雑行を捨てよと言うことです。諸善をするなではありません。


答え


法然上人は「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。」「定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。」(選択本願念仏集)と仰り、明らかに定散二善を捨てよと仰っています。
親鸞聖人も「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」(教行信証化土巻)と仰って、捨てるべき雑行とは19願、定散二善だと仰っています。
往生のためには、諸善を捨てよ、以外に教えられていません。


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by shinrankaiuso | 2014-09-25 02:04 | ⑬三願転入について

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