カテゴリ:③善人・悪人について( 1 )

親鸞会との問答(善人・悪人について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年7月号

問い

親鸞聖人は善人と悪人がいると仰っているのに、すべての人は悪人というのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に断言されています。
一切の群生海」とは、すべての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、悪人ということです。
 善人は一人もいないと仰っています。
 これは親鸞聖人の一貫して変わらぬ人間観で、世に轟いていることです。


これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

親鸞聖人は「一切の群生海、無始よりこの来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、悪人ということではないですか。


答え

以前にもいいましたが、これは全人類は煩悩に穢されていることを仰ったものです。親鸞会でも教えている通り、煩悩に穢された心で善を行っても「一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。」(教行信証信巻)と「雑毒の善」にしかならない、「真実の善」はできないということです。「真実の善」ができるのは仏です。「雑毒の善」しかできない人が善人です。「雑毒の善」さえもできない人が悪人です。



問い

『大無量寿経』に「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」と全人類の実相を教えられているから、全人類は悪人であることに間違いはないでしょう。


答え

いつもの断章取義です。これは『大無量寿経』の五悪段と呼ばれるところにあるのですが、五悪段の前に「諸仏の国土の天・人の類は、自然に善をなして大きに悪をなさざれば」と善人について説明なされていますので、全人類が悪人という意味にはなりません。
また親鸞聖人はこの五悪段を全く引用されていません。中国語に翻訳される際に儒教の影響を受けて五悪段が加えられた、と今日考えられていますが、親鸞聖人も同様のお考えであったのかもしれません。実際、親鸞聖人が重要視された異訳経の『無量寿如来会』には五悪段はありません。
親鸞聖人が触れられていない部分を、鬼の首でも取ったかのように強調して、「これが親鸞聖人の教えだ」と言っていること自体、恥ずかしいと思わないのですか。



問い

親鸞聖人は、全人類のことを「一生造悪」(正信偈)と仰っていますから、やっぱり全人類は悪人ではないですか。


答え

これについて蓮如上人は「一生造悪の機も」(正信偈大意)と解説されています。元は道綽禅師が「たとひ一生悪を造れども」(安楽集)あるいは「たとひ一形悪を造れども」(同)と仰ったことです。親鸞聖人も「一形悪をつくれども」(高僧和讃)と仰っていますから、たとえ一生悪を造っている機であってでも、ということで、全人類が「一生造悪」という意味にはなりません。日本語を正しく理解してください。



問い

しかし、「極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。


答え

これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。



問い

悪人正機とは、全人類の正しい機様は悪人である、ということでしょう。


答え

違います。悪人正機ということについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということです。



問い

では、親鸞聖人は全人類のことをどう仰っているのですか。


答え

いくつかありますが、判りやすいのが『愚禿鈔』です。「二機とは、一には善機、二には悪機なり。」と大きく分けられて、「善機について二種あり。(中略)一には定機、二には散機なり。」と「また悪機について七種あり。一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。」とあります。
『正信偈』にある「定散与逆悪」「善悪凡夫」は、「定散」「善凡夫」が「善機」つまり善人のこと、「逆悪」「悪凡夫」が「悪機」つまり悪人のことです。
悪人しかいないと仰ったお言葉は皆無です。



問い

善人が存在するかどうかという机上の空論よりも、私たちは悪人なんだから、悪人として仏教を求めればいいのではないですか。


答え

善人を認められないから、おかしな理解をするのです。法然上人は「わが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」(勅修御伝)と判りやすく教えられました。
悪人が、善人に対して説かれた教えを自分に関係があることと誤解したなら、救われないということです。



問い

善人に対して説かれた教えと悪人に対して説かれた教えが違うというのですか。


答え

釈尊は機に応じて法を説かれたのですから、違います。これを対機説法、応病与薬といいます。存覚上人が「如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と教えられた通りです。「上根の機には諸行を授け」、つまり善人には諸善を説かれ、「下根の機には念仏をすすむ」、つまり悪人には念仏を勧められたということです。
下根の機に諸行をすすむ」と頓珍漢なことを言っているのが、高森会長です。



問い

聖道門は方便の教えで、聖道門の修行ができる善人は、実際には誰もいないのではないですか。


答え

聖道門の教えを否定された善知識方はありません。龍樹菩薩は聖道門における諸善の実践によって初歓喜地まで至られて聖者となられていますが、それも否定するのですか。
善導大師は「わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。」(観無量寿経疏)と仰っています。自分と一緒に悪を断ち、菩薩の道を行じてきた法友の中で、大地を微塵にくだいたよりもなお多い方々が聖者となられた、ということです。



問い

法然上人は大原問答で、聖道門の教えを否定されたのではないですか。


答え

法然上人は大原問答(大原談義)で、聖道門の教えを否定されたのではありません。
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、機根比べには、源空勝ちたりき。聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易し」(勅修御伝)とありますように、聖道門の教えは末法・法滅の時代とその衆生の機に合わないが、浄土門は末法・法滅であってでもその機に相応する、と仰って、聖道諸師も信伏したのです。



問い

しかし、親鸞聖人は「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず」(教行信証化土巻)と聖道門を非難されているではないですか。


答え

聖道門の教えを否定されたのではなく、聖道門が時代とその衆生の機に相応していないことも知らず、法然門下を弾圧したことに対して非難されたのです。
また「聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。 」(教行信証化土巻)とも仰っています。聖道門は釈尊在世と正法の時代のための教えであって、像法・末法・法滅の時代とその衆生のためのものではないが、浄土の真宗は時代に関係なく、煩悩に穢れた衆生ための教え、ということです。



問い

聖道門の修行のできる善人が、釈尊在世・正法及び像法の時に存在したことは判りましたが、末法以後に限定すれば、善人はいない、全人類は悪人ということではないですか。


答え

末法の善導大師は、「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す」(往生礼讃)と御自身のことを仰っています。聖道門の教えに従って善をしてきたけれども、その善根が薄少であって、出離できない凡夫、ということです。善導大師は、御自身を善根薄少の善凡夫と嘆かれたのであって、無善の悪凡夫と告白されたのではありません。実際、「この定かならずすなはち得やすし」(観無量寿経疏)と、善導大師にとって定善をすることは容易だ、と仰っています。
聖者でなければ悪人だというのは、論理が飛躍しています。



問い

善導大師がどう仰ったかは知りませんが、七高僧の教えは、親鸞聖人を通して理解すべきです。親鸞聖人は末法に善人がいるとは認められていないのではないですか。


答え

承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』には、「智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや」とあり、末法でも智覚禅師のように上品上生の往生を遂げることができるではないか、と法然上人を非難しました。これについては、法然上人も親鸞聖人も、智覚禅師が上品上生の善人であることを認められています。
親鸞聖人のお言葉では、「禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。」(教行信証信巻)とあります。『正信偈』のお言葉を使うなら、智覚禅師は「定散与逆悪」の定散の機、「善悪凡夫」の善凡夫ということです。



問い

全人類は真実を見る目も聞く耳も持たない無眼人・無耳人と教えられていますから、広い意味で、全人類は悪人ということでしょう。


答え

不勉強にも程があります。『安楽集』に釈尊のお言葉を引用されて、「このゆゑにわれ説く、<無量寿仏国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ>と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく」とあります。浄土往生を疑って、外道を信じているような人のことを無眼人・無耳人と釈尊が名づけられた、ということです。
親鸞聖人も「大聖易往とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば 無眼人とぞなづけたる 無耳人とぞのべたまふ」(浄土和讃)と仰っています。
無智を自覚しましょう。


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by shinrankaiuso | 2012-07-21 19:57 | ③善人・悪人について

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②五逆・謗法・闡提について
③善人・悪人について
④獲信のために善は必要か
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⑨機の深信について
⑩法の深信について
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⑫因果の道理について
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