カテゴリ:⑤白道について( 3 )

親鸞会との問答(続続 白道について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力


これに反論した親鸞会の回答
講師部講義(顕真平成25年3月号掲載)

問い

善導大師も親鸞聖人も、白道を他力としてしか仰っていないのではないですか。

答え

前段なしの後段はあり得ません。善導大師は前段を「諸の行業を廻して直に西方に向う」と仰り、諸善を回向して進むと教えられています。善導大師は三願転入の道程を「二河白道の譬え」で示されています。
「前段なしの後段はあり得ず、あとは自他力廃立あるのみです」の一行で、三願転入を否定する者を破邪できます。



これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

前段なしの後段はあり得ません。善導大師は前段を「諸の行業を廻して直に西方に向う」と仰り、諸善を回向して進むと教えられています。善導大師は三願転入の道程を「二河白道の譬え」で示されているではないですか。


答え


では、後段はどこからですか。
三定死の後、阿弥陀仏の喚び声「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」を聞いた時から後段ではないのですか。阿弥陀仏の喚び声を聞くのは白道に乗る前です。しかも、阿弥陀仏の喚び声は18願そのものと高森会長も教えているではないですか。
なお、「廻して」は翻しての意味であると前にも言った通りです。なぜなら、阿弥陀仏の18願の喚び声を聞いてその通りに従った者が、諸善を回向することはあり得ないからです。これが自他力廃立です。もちろん三願転入の教えを善導大師が否定されたのが「二河白道の譬え」ということです。



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by shinrankaiuso | 2013-04-12 20:02 | ⑤白道について

親鸞会との問答(続 白道について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力


これに反論した親鸞会の回答
講師部講義(顕真平成25年2月号掲載)

問い

白道とは自力の心に非ず」と教えられているのに、白道を自力の心というのは間違いだ、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

善導大師が二河白道の譬えで、「能生清浄願往生心」の「」を「生ず」と読んで「白道」を自力だと教えられました。それを親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「」を「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています。
本会を非難している者は、親鸞聖人の読まれ方で攻撃してきているだけです。



これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

善導大師が二河白道の譬えで、「能生清浄願往生心」の「」を「生ず」と読んで「白道」を自力だと教えられました。それを親鸞聖人は「能生清浄願往生心」の「」を「生ぜしむ」と読み替えられ、他力だと明らかにされています。


答え


結局のところ、高森会長は親鸞聖人の教えとは異なることを教えていると認めた訳ですね。
参考までに、善導大師は他力・自力という言葉を御著書の中で一度も使われていません。信心についても、他力の信心・自力の信心と区別されて説明されたところもありません。
そこで親鸞聖人が、善導大師が信心について説明された御文について、他力の信心を顕わされた部分と自力の信心を顕わされた部分とに分けられました。親鸞聖人は二河白道の譬え全体を、善導大師が他力の信心を顕わされた部分と明らかにされたのです。
善導大師が仰っていないことをでっち上げ、親鸞聖人の解釈に刃向かって、何が親鸞学徒ですか。親鸞学徒常訓は嘘ですか。



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by shinrankaiuso | 2013-03-12 21:44 | ⑤白道について

親鸞会との問答(白道について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年10月号

問い

白道とは自力の心に非ず」と教えられているのに、白道を自力の心というのは間違いだ、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

白道とは、善導大師の「二河譬」に出る言葉です。
その中で、「火焔に道を焼く」と我々の善心、聞法心を白道に喩えられ、自力の善心、求道心の微弱でお粗末なことを「極めてこれ狭少なり」と仰っています。
善導大師の「二河譬」の前段に説かれる白道とは、明らかに自力の聞法心、願往生心を喩えられたものです。
前段なしの後段はあり得ず、あとは自他力廃立あるのみです。
親鸞聖人は、この善導大師を大心海化現の方と言い、「善導独明仏正意」と讃仰されています。



これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

白道とは、善導大師の「二河譬」に出る言葉です。その中で、「火焔に道を焼く」と我々の善心、聞法心を白道に喩えられ、自力の善心、求道心の微弱でお粗末なことを「極めてこれ狭少なり」と仰っています。善導大師の「二河譬」の前段に説かれる白道とは、明らかに自力の聞法心、願往生心を喩えられたものではないですか。



答え

まず、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観経疏)の悪人に善心があるというのが、最初から矛盾しています。
次に、「〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」(同)とあります。「功徳の法財」は、もちろん自力ではありません。阿弥陀仏の「功徳の法財」であり、他力信心を顕わされています。
最後に、「極めてこれ狭少なり」は、他力信心は高森会長の言うような無碍の大道ではないことを顕わされたものです。つまり、他力信心を賜っても、煩悩は変わらないことを譬えられたものです。親鸞聖人はそれを「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。」(一念多念証文)と教えられているのです。



問い

二河譬」の前段は三定死までの「白道」、後段は三定死後の「白道」であり、後段では「白道」が無碍の大道になると教えられていますから、前段の「白道」は求道心あるいは聞法心に決まっているではないですか。


答え

善導大師の『観無量寿経疏』、あるいは『教行信証』信巻にある二河白道の譬えを読んだことがないのですか。
三定死は、「白道」に乗る前ですよ。三定死の後も、「白道」は幅四、五寸のままです。
勝手に話を創作しないで下さい。
自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人でしたよね。



問い

二河白道の譬えは、欲と怒りの煩悩と戦って阿弥陀仏に救われるまでの道程を譬えられたものですから、白道は信前の求道のことです。


答え

高森会長は、『教行信証』6巻に説かれていることは、前5巻が救われたらどうなるかの信後について、最後の化土巻1巻だけがどうしたら救われるかの信前について、と教えていましたよね。
では、二河白道の譬えは、何巻に書かれてあるか知っていますか。そう、信巻です。化土巻ではありません。
ならば、二河白道の譬えは信前のことですか信後のことですか。
ちなみに信巻の最初に「至心信楽の願」という願名が記され、化土巻の最初には「至心発願の願」「至心回向の願」とあります。信巻は18願を解説されたもの、化土巻は19願、20願を解説されたものということです。



問い

信前の人と全く関係のないことを説かれてはおらず、信前の人にもわかるように説かれた現代版そのものが高森先生が説かれる二河白道でしょう。話にはある程度の自由度があってもよいです。


答え

つまり、親鸞聖人の仰っていないことを高森会長は説いているということですね。
参考までにいいますと、「また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。」(教行信証信巻)とあり、「能生清浄願心」について、「これ凡夫自力の心にあらず」(浄土文類聚鈔)とはっきり断言されています。
あるいは「白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。(中略)道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。」(同)等、親鸞聖人は「白道」を18願力、他力信心の意味でしか仰っていません。
自力と他力の水際を説くのが善知識なら、自力と他力を反対にしている人物は悪知識ということでいいですね。



問い

白道」を歩んでいる行者について、「もろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。」(教行信証信巻)と教えられています。これは、善を回向して浄土にむかう、という解釈もできますから、信前の自力の求道を表現されたものと言えます。


答え

回して」の意味ですが、一般的には「回向して」と「ひるがえして」という2つの解釈があり得ます。しかし、ここでは後者の意味です。なぜなら、「白道」を信後の他力の意味でしか親鸞聖人は仰っていないからです。
回して」が「回向して」だから「白道」が信前の自力だ、ではなく、「白道」が信後の他力だから「回して」が「ひるがえして」、なのです。発想が逆です。
したがってこの御文は、もろもろの善を捨てて直ちに浄土に向かう、という捨自帰他の行者を表されたものです。



問い

存覚上人は、「仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむべからず。」(持名鈔)と教えられている通り、煩悩と戦っていくのが求道ですから、二河白道の譬えを信前の求道としても非常によく合います。


答え

典型的な断章取義です。
同様の内容で、「順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。」(持名鈔)と、信後の報謝については言われていますが、信前に煩悩と戦って求道するという内容は、どこにもありません。
それどころか、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」(同)とあります。世の中の倣いに従って煩悩にまみれながら出離するのが真宗の教えだということです。
高森会長は、自力と他力の理解が真逆なのです。



問い

『愚禿鈔』には、「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」とありますので、「白道」は19願、自力諸善の求道ではないですか。


答え

どこに「白道」と書かれてありますか。「」とありますので、どう読んでも「白路」のことです。その証拠に、この後には、「他力白道を念ぜよとなり。」とあります。「白道」は「他力」です。
親鸞聖人の教えを正しく理解するには、根本聖典である『教行信証』に依らなければならない
と高森会長は言っていますので、『教行信証』信巻の記載を示すと、「路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。」とあり、『愚禿鈔』の「」と『教行信証』の「」とは同じ内容です。『愚禿鈔』は写本しか残されていないことを考えると、『愚禿鈔』を書写した人が、「」と「」とを誤写した可能性も考えられます。



問い

二河白道の譬えを説かれる前に「行者のために一つの譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。」(教行信証信巻)とあります。群賊・悪獣の惑乱から守護しなければならない信心ですから、自力の信心ということではないですか。


答え

結局のところ、親鸞聖人が「白道」を自力という意味で仰ったお言葉は、どこにもないから、妄想を創り上げるのです。
白道」は、「火の河」と「水の河」に挟まれた細い道です。獲信後、高森会長が言うような大道になることもありません。しかも、「群賊・悪獣」が「行者」を呼び返そうとします。しかし、そんな細い道でも何物にも妨げられることなく西の岸まで確実に行けるのは、「守護」されているからです。
つまり、「信心を守護して」とは、「守護」しなければならない「信心」ではなく、「守護」された「信心」ということで、当然ながら他力信心を表わされたものです。
なお、高森会長や貴方のような自力妄想の人を「群賊」と言われるのです。



問い

親鸞聖人は『観無量寿経』に隠顕があると教えられています。顕説として自力の行と信、隠彰として他力の行と信が説かれている、というものです。二河白道の譬えは、善導大師が、『観無量寿経』の三心(至誠心・深心・回向発願心)の回向発願心の解釈をされる中にあります。したがって、「白道」は顕説の自力信心と隠彰の他力信心が説かれている、と親鸞聖人は見做されていたと言えるでしょう。


答え

負け惜しみですね。前にも言いましたが理解できていないようなので、再度説明します。
『教行信証』信巻には隠彰の他力の信心、化土巻には顕説の自力の信心が説かれています。『観無量寿経』の三心を解釈された『観無量寿経疏』の三心釈は、信巻にも化土巻にも引用されています。しかし、二河白道の譬えは、信巻にしか引用されていません。つまり、「白道」を顕説の自力の信心としては、親鸞聖人は仰っていません。


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by shinrankaiuso | 2012-10-16 20:44 | ⑤白道について

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①一切衆生必堕無間について
②五逆・謗法・闡提について
③善人・悪人について
④獲信のために善は必要か
⑤白道について
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⑦19願について
⑧宿善について
⑨機の深信について
⑩法の深信について
⑪善知識への無条件服従について
⑫因果の道理について
⑬三願転入について

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