カテゴリ:⑥定散二善について( 1 )

親鸞会との問答(定散二善について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 定散二善をせよ


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年11月号

問い

親鸞聖人は定散二善を捨てよと仰っているのに、定散二善を勧めるのは間違い、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

 煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
 親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。
後生の一大事の解決は、
一向専念無量寿仏と知らされて、
初めて定散二善(自力)が現れるのです。
 後生も菩提もなく一向専念の教えも知らない、無力の人に仰ったことではないのです。



これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。


答え

中学高校の頃、先生からよく言われませんでしたか、「煙草をのむな」と。大半の生徒は煙草をのんだことがないですが。温泉にいくと、「服や水着を着て入らないでください」と注意書きしてあるところがあります。99%以上の人は素っ裸ですが。聖道門では結婚を禁じています。日本は別として他国の僧侶は誰も結婚していませんが。
親鸞聖人が定散二善を行っていない人に、定散二善をせよと仰ったお言葉を示してください。



問い

ではどうすれば、獲信できるというのですか。
善もせずに、信仰が進みますか。雑行を持っていない者に、雑行を捨てることができますか。


答え

雑行はもうすでに持っているではないですか。これ以上雑行を増やして信仰が進むとでも思っているのですか。素直に雑行を捨ててください。
そして、善をしなければ信仰は進まない、という間違った心も捨ててください。それを「自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」(唯信鈔文意)と教えられています。善人も悪人も、自分の勝手な計らいの心を捨てなさい、です。聖教に書かれていないことを本当はこういう意味だ、というのが、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。獲信したいならば、聖教に書かれてある通りにすべきです。



問い

後生の一大事の解決は、
一向専念無量寿仏と知らされて、
初めて定散二善(自力)が現れるのです。
後生も菩提もなく一向専念の教えも知らない、無力の人に仰ったことではないのです。


答え

後生の一大事の解決は、
一向専念無量寿仏専修念仏)でしかできないと教えられて、
定散二善(他の方便)なしが、真宗の超常識です。
それが、「極重悪人唯称仏」(正信偈)です。
ちなみに一向専念無量寿仏とは、「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」(選択本願念仏集)と教えられているように、専修念仏のことです。こんなことさえも知らないとは、無宿善の人ですね。



問い

蓮如上人は『御文章』で「一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。」(2帖目第9通)と教えられていますから、真宗における「一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に向かないことです。善を捨てよということではありません。


答え

蓮如上人はこの後に「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。」と仰っています。親鸞聖人は「一向は余の善にうつらず」(一念多念証文)と仰っています。存覚上人も「諸行をまじふべからずとみえたり。」(持名鈔)と仰り、真宗においても「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」(選択本願念仏集)の法然上人の仰せがそのまま継承されています。
要するに、「一向専念無量寿仏」とは善を捨てよ、ということで、高森会長の言う善の勧めを否定された根拠ですよ。



問い

念仏1つで助かるというのは間違いで、信心1つで助かる、と教えられたのが親鸞聖人です。


答え

親鸞聖人は「専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。」(一念多念証文)と仰っています。信心とは専修念仏の心、善と他の仏に心を掛けないことをいいます。
つまり、信心1つとは、念仏1つで助かると信じた心1つということです。
したがって、念仏1つで助かるというのは間違いだ、と言っている人は、親鸞聖人と信心(念仏1つで助かると信じた心)が異なるということですね。



問い

親鸞聖人は『一念多念証文』で、19願と定散二善を「浄土の方便の善」と仰っていますので、真実に入るためには「浄土の方便の善」が必要ということではないですか。


答え

浄土の方便の善」とは、「欣慕浄土の善根」という意味です。
『観無量寿経』に説かれた定散二善について、親鸞聖人は「二善・三福は報土の真因にあらず。(中略)如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。」(教行信証化土巻)と仰っています。定散二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。これは釈尊が18願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である、ということです。
つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるために説かれたのが、定散二善ということです。



問い

信前は、聖道門を信じている人も浄土門を信じている人も違いはないのではないですか。


答え

その考え方は、釈尊の対機説法を否定するものです。
親鸞聖人は『教行信証』化土巻で、「この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく」「安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく」と教えられています。この世で悟りを開く教えと、浄土に往生して悟りを開く教えとは、まったく違います。浄土に往生しようという気のない聖道門の人に、浄土往生を願わせるために、定散二善が説かれた、と善導大師、親鸞聖人が仰っているのですから、定散二善・19願の正機は聖道門の修行をしてきた善人です。



問い

釈尊は心想羸劣の韋提希に定善を勧められているではないですか。したがって、韋提希は定善の機ではないですか。


答え

釈尊は、韋提希に定善を勧められたのではありません。韋提希が、「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」(観無量寿経)、と釈尊に、後の衆生のために浄土を見る方法を教えてほしい、と請うたから釈尊が定善を説かれたのです。釈尊が質問に答えられたことと、釈尊が勧められたこととは違います。
それと、心想羸劣の韋提希を定善の機というのは、どういう発想なのでしょうか。



問い

しかし釈尊は韋提希に対して、「なんぢおよび衆生、まさに心をもつぱらにし念を一処に繁けて、西方を想ふべし。」(観無量寿経)と韋提希に定善を勧めておられるではないですか。


答え

定善の方法を釈尊が説かれれば、「~すべし」と通常表現するのではないですか。しかし、韋提希は定善を実践しようともしていませんし、実践しようともしない韋提希に対して釈尊が実践を促されてもいません。親鸞聖人も、釈尊が韋提希に定善を勧められた、とも仰っていません。
語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。」(教行信証化土巻)と教えられていますように、「べし」という言葉だけにとらわれた「指を看視して」、釈尊の御心を無視するという「月を視ざるがごとし」の断章取義です。



問い

釈尊が韋提希に対して定善を勧められていない、と親鸞聖人が仰った根拠でもあるのですか。


答え

まず、釈尊は韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして」(観無量寿経)と仰っています。これを親鸞聖人は、「すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり」(教行信証化土巻)と解説なされています。韋提希は「定散諸機」の善人ではなく、「逆悪の機」の悪人と親鸞聖人が見做されたのです。
そして「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)の通り、定散二善は「定散諸機」に対して勧められたのだと。



問い

善を勧められた仏教の結論が、阿弥陀仏の本願ですから、阿弥陀仏の救いに善が関係ない筈がないですよ。


答え

19願・定散二善のことを真宗ではどのように教えられているか御存知ないようですね。親鸞聖人は「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」(教行信証化土巻)と仰っています。「横超」が18願ということは御存知でしょうが、それに対して「横出」は19願のことです。
したがって雑行とは、19願及び定散二善のことです。阿弥陀仏の救いにあずかるには、雑行を捨てよ、つまり19願・定散二善を捨てよ、という関係です。



問い

雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。善を否定して仏教になりますか。


答え

親鸞会では、「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
あなたの疑問に対して、蓮如上人は『御文章』で、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、(中略)仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(3帖目第13通)と教えておられます。信前・信後を問わず心得るべきことは、仁義という倫理道徳の善であり、往生のためには19願・定散二善を捨てよ、ということです。



問い

阿弥陀仏が19願を建てられ、釈尊が善を説かれたことは無駄であったというのですか。


答え

これに対する答えは、これまでにも言ってきたことです。
1つは「上根の機には諸行を授け、下根の機 には念仏をすすむ」(持名鈔)です。
2つには、「欣慕浄土の善根」(教行信証化土巻)です。
この2つは善人の立場を考慮されて説明されたものですが、もし自分が悪人であると思うのであれば、法然上人の説明のされ方が最も判りやすいです。
諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く」(選択本願念仏集)、「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」(同)



問い

それでは、善の実践を否定されたということではないですか。


答え

聖道門はそう言って、法然上人を弾圧しました。法然上人は、善の全くできない悪人を救うために阿弥陀仏が本願を建てられたことを明らかにされるために、聖道門の反発を覚悟の上でそのように断言されているのです。
法然上人は阿弥陀仏の大慈悲を具体的に、「一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。」(選択本願念仏集)と仰っています。善人も悪人もどんな人も平等に往生させるために、難を捨て易を取って本願とされた。財施をもって本願となされたならば、貧しい者は往生の望みを絶たれてしまう。しかも金持ちは少なく貧しい者は甚だ多い。
この後も法然上人は具体例を挙げて説明されています。阿弥陀仏が善悪無関係の本願を建てられてのですから、阿弥陀仏の救いには善の実践は全く必要がないのです。


[PR]
by shinrankaiuso | 2012-11-17 20:57 | ⑥定散二善について

浄土真宗親鸞会のデタラメ教義を暴くブログ


by shinrankaiuso

カテゴリ

①一切衆生必堕無間について
②五逆・謗法・闡提について
③善人・悪人について
④獲信のために善は必要か
⑤白道について
⑥定散二善について
⑦19願について
⑧宿善について
⑨機の深信について
⑩法の深信について
⑪善知識への無条件服従について
⑫因果の道理について
⑬三願転入について

最新の記事

親鸞会との問答(法の深信につ..
at 2014-09-26 19:22
親鸞会との問答(三願転入につ..
at 2014-09-25 02:04
親鸞会との問答(因果の道理に..
at 2013-10-12 06:15

外部リンク

その他のジャンル