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親鸞会との問答(獲信のために善は必要か)

飛雲」から親鸞会への教義非難
4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年8月号

問い

親鸞聖人は
念仏一つで助かる。獲信には善は不要
と仰っているのに、
善をしなければ獲信できない
というのは間違いだ
という人がありますが、如何でしょうか。

答え

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。
捨てよ」と「不要」との違いは、「ハケ」と「ハゲ」の読み違いどころではありません。毛の有るのと無いのとは、全く逆で大違いだからです。注意しなければなりません。


これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。


答え

極重悪人唯称仏」(正信偈)も知らないのですか。この元は源信僧都の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)です。また蓮如上人も「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり」(正信偈大意)と教えられています。極重の悪人は、念仏以外の方便(善)はない、唯念仏して極楽に往生できるのだ、つまり、獲信・往生に善は不要ということですが、善知識方の仰せを否定するのですか。
難しい聖教は読めなくても、『正信偈』くらいは読んでおいてください。



問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とは、救われたならば念仏だけということで、そこまで導く善は必要です。『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」と同じことで、真宗の学者が誰も反論できない『歎異抄をひらく』には、
弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである
と解説されていますよ。


答え

ここだけで、高森会長が阿弥陀仏の救いに極めて疎い人物と判ります。
悪人である下品の往生について法然上人は判りやすく、「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)、と解説なされています。この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って善もせず浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇って往生を得る、ということです。救われるまでに善は不要ということが、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」です。
真宗の学者から「われらの相手に非ず」と失笑されていることを知りましょう。



問い

蓮如上人は、「方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」(御一代記聞書)と仰っているように、方便からしか真実に入れず、でしょう。それなのに、念仏が方便とは呆れます。


答え

方便の理解が根本的におかしいですね。蓮如上人が仰っていることは、権仮方便を捨て善巧方便を立て、善巧方便によって真実の信を獲られる、ということです。
善巧方便とは、「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)とあるように、18願他力念仏のことです。親鸞聖人も18願他力念仏について解説なされた『教行信証』信巻で「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と仰ってます。
権仮方便とは、「浄土の要門、方便権仮を顕開す」(教行信証化土巻)とあるように、19願定散二善のことです。
あなたの言葉を正しく修正するなら、善巧方便の念仏からしか真実報土には往けず、ということです。



問い

蓮如上人は、「雑行を捨てよ」、と繰り返し仰っています。雑行をしていない者に対して、「雑行を捨てよ」、とは仰っていないから、雑行である善を勧められていることになるでしょう。


答え

あなたの理屈なら、雑行である五雑行をしていない者はまず五雑行をせよ、ということですね。
「タバコを吸うな」と言われて、タバコを吸っていない人が、タバコを吸ってから止める、「自殺は絶対に止めましょう」と言われて、自殺をしたことがない人は、自殺をしてから止める、という馬鹿な発想をする人はいません。
雑行をしていない人に対してはまず雑行をせよ、と仰ったお言葉はありますか。



問い

親鸞聖人は、「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)と仰っています。釈尊は『観無量寿経』を通して、獲信のために諸善を全ての人に勧められている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。


答え

しっかり読んでください。「定散諸機をすすめけり」です。定散諸機に対して諸善を勧められた、と仰っているのですが、何を勘違いしているのですか。何度も言ってきたように、逆悪の機に対する定散諸機です。
法然上人の「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て」(勅修御伝)、存覚上人の「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と同じことを親鸞聖人が仰った根拠です。



問い

定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。


答え

同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。



問い

しかし、釈尊は心想羸劣の韋提希に定善を勧められているではないですか。韋提希は定善をやってみて、善のできないことが知らされて救われたのではないですか。


答え

勧められたのではありません。韋提希が「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」(観無量寿経)、と釈尊に請うたから釈尊が定善を説かれたのです。これを善導大師は「定善の一門は韋提の致請にして」(観無量寿経疏)と教えられました。
大体、定善をやってできなかったからといって、定善よりも簡単な散善さえもできないと知らされる筈がないでしょう。微分積分の問題が解けなかったら、足し算の問題も解けないと知らされますか。



問い

善導大師は『観無量寿経』について、「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」(観無量寿経疏)と仰っています。聖人という善人ではなく、凡夫という悪人のために定散二善を説かれた、と明言されているではないですか。


答え

善人、悪人の定義については以前に示した通りですが、善導大師が「凡夫のためにして」と仰った意味は、「いまの時の善悪の凡夫」(観無量寿経疏)です。凡夫=悪凡夫ではありません。凡夫=善凡夫+悪凡夫です。
善凡夫に善を説かれ、悪凡夫に念仏を勧められた、ということを法然上人、親鸞聖人、存覚上人のお言葉を示して説明してきましたが、まだ判らないのですか。



問い

諸仏方が教えられていることを簡潔にまとめられたのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(七仏通誡偈)です。諸仏方が善を勧めておられるのに、それを否定するのですか。


答え

あなたの主張は、比叡山が法然上人を非難した内容そのままです。実際、『延暦寺奏状』には七仏通誡偈が出ています。
親鸞聖人はそれに真っ向から反論されていますが、御存知ないのですか。
親鸞聖人は念仏と諸善とを比較なされて諸仏方の教えを「勧無勧対」(教行信証行巻)と断言なされました。念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない、ということです。
さて、あなたは比叡山の主張と親鸞聖人の仰せと、どちらを信じるのですか。



問い

親鸞聖人は、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。(中略)この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」(一念多念証文)と仰っているように、すべての人に「浄土の方便の善」を勧められているのではないですか。


答え

全く逆です。「浄土の方便の善」「要門・仮門」より「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るように教え勧められた、ということです。もちろん、「浄土の方便の善」「要門・仮門」に迷っている人に対してです。「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」である18願を願い求めている人に、「浄土の方便の善」「要門・仮門」を勧められたという解釈は、どこの世界の文法を使っているのでしょうか。



問い

19願に「十方衆生」と誓われているのだから、善が阿弥陀仏の救いと関係がない筈がないでしょう。


答え

十方衆生」とあるからすべての人に関係がある、という単純思考でしょうが、「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。
あなたの理屈なら、聖道門もすべての人に関係がある筈です。まずは聖道門からはじめるべきですね。



問い

釈尊が仰った「十方衆生」の話ではなく、本師本仏の阿弥陀仏が仰った「十方衆生」の話をしているのです。阿弥陀仏が19願で全ての人と誓われたのが、間違いだというのですか。


答え

間違いです。親鸞聖人は18願の「唯除五逆誹謗正法」について「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられました。18願には「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」なんだと。つまり「唯除五逆誹謗正法」のない19願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではないということです。



問い

親鸞聖人は、19願の「十方衆生」に漏れている者がいるとまでは仰っていないではないですか。


答え

前にも紹介しました「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)に、「臨終現前の願」の対機は「定散諸機」と仰ってますよ。「逆悪の機」は漏れていますが。



問い

それではまるで、善をすることは獲信の遠回りになるみたいではないですか。


答え

よく判りましたね。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(歎異抄)は、善に拘っている善人(定散諸機)でさえ往生できるのだから、ましていわんや善に拘らない悪人(逆悪の機)はなおさら往生できる、ということです。
親鸞聖人の直のお言葉では、「三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(教行信証信巻)です。19願、定散二善では報土往生できず化土往生となり、迂回の善だ、ということです。



問い

善をしなくてもいいのなら、悪をすれば救われるのですか。


答え

親鸞会らしい短絡的な考え方です。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』に、「下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。」とあります。五逆の者が臨終の心の籠らない念仏で往生できるのは、衆生の願と行によるのではなく、法蔵菩薩の五劫思惟の願と兆載永劫の行によるからだ、ということです。
善をすれば」も「悪をすれば」も、自分の願行を加えなければ、阿弥陀仏は救ってくださらない、と仏智を疑っているのですから、救われる筈がないです。



問い

私たちは善ができると自惚れているから、実際に善をやってみて善のできない者と知らされる必要があるのです。


答え

完全に破綻した論理です。たとえば、全財産を財施して知らされることは、全財産を財施することができた、という事実です。財施をして財施のできない者と知らされることなど永遠にありません。
親鸞聖人が自惚れていると仰ったのは、「この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」(教行信証信巻)とあるように、諸善を実践して報土往生できる、と自惚れている人のことです。
法蔵菩薩と同じ善をしなければ同じ報土にはいけませんが、法蔵菩薩と同じ善ができないと思う人が親鸞聖人の教えを聞いているのです。もし法蔵菩薩と同じ善ができると本気で思っているなら、親鸞聖人の教えを否定するでしょう。



問い

心の底では、真実の善ができると自惚れていますので、善を実践することで雑毒の善しかできないと知らされるのです。


答え

雑毒の善ができるならば、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と解説なされているところの逆悪の機、悪人ではありません。もちろん逆謗の機、極重の悪人でもありません。
我々は、雑毒の善ができないのにできると自惚れている悪人なのか、雑毒の善ができる定散諸機の善人なのか、どちらなのですか。
なお親鸞聖人は、「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」(教行信証化土巻)と仰っています。定散諸機も極重の悪人も、善ができてもできなくても、自惚れていてもいなくいなくても、ただ弥陀を称せよ、としか教えられていません。



問い

仏教の根幹は因果の道理だから、「善因善果、悪因悪果、自因自果」を信じて、光に向かって進まなければ救われません。


答え

あなたの言われているのは化土の因果です。罪福の因果を信じて善をするのを散善といいます。しかしそんな人は、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、化土にしか往けないと厳しく誡められています。
親鸞聖人が教えられたのは、「報土の因果」(正信偈)です。法蔵菩薩の兆載永劫の修行による功徳を十方衆生が受け取って報土往生する、高森会長の言う他因自果を、「仏智の不思議」と教えられているのです。


# by shinrankaiuso | 2012-08-15 19:33 | ④獲信のために善は必要か

浄土真宗親鸞会のデタラメ教義を暴くブログ


by shinrankaiuso

カテゴリ

①一切衆生必堕無間について
②五逆・謗法・闡提について
③善人・悪人について
④獲信のために善は必要か
⑤白道について
⑥定散二善について
⑦19願について
⑧宿善について
⑨機の深信について
⑩法の深信について
⑪善知識への無条件服従について
⑫因果の道理について
⑬三願転入について

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