親鸞会との問答(五逆・謗法・闡提について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年6月号

問い

五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。




これに反論した回答
飛雲」からの反論

問い

親鸞聖人は「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということではないですか。


答え

親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。



問い

親鸞聖人は「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)と仰っていますから、全人類は五逆・謗法の者で、やっぱり必堕無間ではないですか。


答え

これも典型的な断章取義です。このお言葉の後に、「同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。」とあります。どのように読んでも、善証房のような五逆・謗法を造っている者に近付いてはならない、ということで、お手紙を受け取った関東の同行は、五逆・謗法の者ではないという前提です。



問い

では「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)は、間違っているというのですか。


答え

この後の「同座せざれ」を無視して解釈するするからおかしくなるのです。五逆罪・謗法罪が親鸞会の説明通りなら、親、兄弟、配偶者、子供、職場の同僚などとも、親しくしてはならず、同行同士集まることも、善知識、師に近付くことも禁じられたことになります。親鸞聖人は、一家離散、引き籠り、隠遁生活を勧められたことになり、会を作って多くの人が集まる法話や会合などもっての外ということでが、それが正しい解釈ですか。



問い

全人類が五逆謗法の者ということではないという確かなお聖教上の根拠でもあるというのですか。


答え

謗法罪については、「聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし」(御伝鈔)とあります。
五逆罪については、「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)などです。この文は、法然上人が仰ったことを書かれたものですし、『唯信鈔』は親鸞聖人が自ら何度も書写されて同行に読むように勧められた書ですから、法然上人、親鸞聖人のお言葉でもあります。



問い

外見上は信順していても、心の底では信じ切れていないから、謗法罪を造っていることになるのではないですか。


答え

親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』を引用して説明されています。「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと」(教行信証信巻)
謗法罪とは、仏の存在、仏の教え自体を根底から否定し、もちろん他人にもそれを言うことです。
そんな謗法の者が救われるかどうかについて「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」(同)と、謗法の者が救われることはないと断言されています。全人類が謗法の者なら、誰一人救われることはありません。



問い

謗法の者を救うというのが、阿弥陀仏の本願ではないですか。


答え

このことを親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』を引用されて「謗法・闡提、回心すればみな往く」(教行信証信巻)と教えられました。謗法と闡提の者は、心を改めて、仏法を信じるようになったならば救われる、ということです。謗法と闡提のまま救われるのではありません。
ここからも、謗法の者と謗法でない者がいるというのが浄土仏教の常識と判ります。



問い

阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。


答え

嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。



問い

仏教では心を重視するから、心で親を殺せば、五逆罪になるのではないですか。


答え

親鸞聖人は五逆罪の説明を「ことさらに思うて父を殺す」「ことさらに思うて母を殺す(教行信証信巻)とあります。単に「殺す」のではなく、「ことさらに思うて」なのです。つまり、強い意志をもって親を実際に殺すことを五逆罪というのであって、過失で殺したことでも五逆罪とはいいません。仏教で心を重視するとは、こういうことです。



問い

もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」(口伝鈔)と教えられているように、心で造った悪も重罪になるのではないですか。


答え

軽重関係なく三業で罪を造っているのが凡夫ということですが、三業の関係について親鸞聖人は『涅槃経』を引用して教えておられます。
一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」(教行信証信巻) 心と口との両方で造る罪は軽く、心と口と身との三つで造る罪は重い、ということです。ましてや、心で思っただけで重罪になるとは、何教の話でしょうか。



問い

しかし、全人類は闡提と教えられているのではないですか。


答え

これも大嘘です。親鸞聖人は『涅槃経』を引用されて教えておられます。
衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。」(教行信証真仏土巻)
衆生の根性に定まったものはないから、闡提の者が闡提でなくなったり、あるいは闡提でない者が闡提になったりするのです。親鸞会の原罪思想は、仏教で教えられる空とは反するものです。



問い

人の心は変わるとしても、因果の道理は間違いないのですから、一度造った恐ろしい悪業は消せず、恐ろしい報いを必ず受けるのではないですか。


答え

親鸞聖人は「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(正像末和讃)と教えられました。罪に固定不変の形があると考えるのは、妄想顛倒である有の見の考え方です。
また『涅槃経』を引用されて「たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。」(教行信証信巻)とも教えられています。
有の見に凝り固まった親鸞会を否定されたのが、仏教であり親鸞聖人です。


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by shinrankaiuso | 2012-06-24 20:13 | ②五逆・謗法・闡提について

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