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親鸞会との問答(法の深信について)

飛雲」から親鸞会への教義非難
10.法の深信について

親鸞聖人  往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長  浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる



これに反論した親鸞会の回答
 なし



ダンマリの親鸞会に示した問答
飛雲」の問答


問い


信心決定したならば、浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされるのです。


答え


覚如上人が親鸞聖人の御言葉を以下のように伝えて下されています。
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。」(執持鈔)
往生ということは、補処の弥勒菩薩でも判らないことで、ましてや凡夫に判る筈がないと仰っています。信心決定は成仏とは違いますよ。



問い


蓮如上人は「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」(領解文)と、往生がハッキリ判ったと仰っているではないですか。


答え


かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。」(執持鈔)と仰っているように、往生が判らないまま阿弥陀仏の18願におまかせをしたのが、他力信心の行者です。
また、「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」(浄土論註)とあるように、往生の理屈さえも判らないのに、往生できると仰っています。
要するに、往生の理屈も、浄土がどんなところかも判らないまま、阿弥陀仏にすべておまかせしたことが、「往生一定」なのです。



問い


親鸞聖人は、「まことに知んぬ、(中略)念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」(教行信証信巻)と仰っていますから、浄土に往生することがハッキリと知らされることは、間違いないです。


答え


親鸞聖人が仰っていることは、信心獲得した人は臨終と同時に仏のさとりを開くと知らされた、ということです。
ところがこれは七高僧方は仰っていないことです。たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)とあるように、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。
また聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になりますよ。



問い


親鸞聖人が、「まことに知んぬ」と仰っているのを否定するのですか。


答え


親鸞聖人は『教行信証真仏土巻』で、経典と天親菩薩・曇鸞大師・善導大師等の御文にある浄土の記述を紹介された後、初めて御自身のお言葉を述べられています。
しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。
親鸞聖人は、経典と天親菩薩・曇鸞大師・善導大師等の御文を通して浄土を「あきらかに知んぬ」なのです。体験を通してではありません。その証拠が後の文で、煩悩にまみれた衆生が仏性の浄土を見ることはできない、と仰っています。同じことで、「まことに知んぬ」は聖教を通して解釈するとこのように知らされたということであって、体験上知らされたのではないから、七高僧方と知らされた内容が違っていても、信心として異なることにはなりません。



問い


仏性は見えないかもしれませんが、阿弥陀仏の喚び声を聞くのですから、阿弥陀仏が判らない筈がないです。


答え


朝晩のお勤めはしていますか。
『正信偈』に、「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」とありますが、この元は源信僧都の『往生要集』にある御言葉です。
この意味について蓮如上人が解説されています。「真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。」(正信偈大意)。獲信しても、煩悩が邪魔をして阿弥陀仏を見えなくしていると仰っていますよ。



問い


法の深信は「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。


答え


善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。



問い


法の深信に「さだめて往生を得と深信す」とあるのですから、往生がハッキリ判ることになるでしょう。


答え


善導大師は二河白道の譬喩の前に、「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。」(観無量寿経疏)と仰っています。
周りからの非難攻撃に全く動揺することなく、この道に間違いないと金剛の如き疑いの無い心が、真実の信心だということです。往生への道を深信するとしか仰っていません。



問い


往生がハッキリしてこその、往生への道ではないですか。往生への道がハッキリしたということは、往生がハッキリしたことになるのではないですか。


答え


往生を願うのは、浄土門では大前提です。
二河白道の譬喩で言えば、西の岸に行きたいと願った上で、白道に乗って進むのか乗らないのかの選択です。西の岸から喚ぶ声を聞いて「この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。」(観無量寿経疏)と心が定まります。何に心が定まったのかと言えば、白道を進むことについて「疑怯退心を生ぜず」で、これが無疑の真実信心です。
一方で、西の岸に対する認識は、白道に乗る前も乗った後も何も変わっていません。
つまり、往生を願っている人が、どのようにして往生するのかと心が定まっていないのが信前、18願の念仏1つで往生できる、阿弥陀仏の仰せに信順する、と心が定まったのが信後です。



問い


往生も含めての往生への道ではないですか。往生自体が判らない信心など考えられません。


答え


『歎異抄』で言うなら、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」が自力の信心、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」が他力の信心です。
自力の信心と他力の信心との違いは、「往生のみち」が、「念仏よりほかに」あると思っているか、「ただ念仏して」と心が定まるかの違いです。
往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。



問い


親鸞聖人は、御自身の往生について断言されている御文はいくつもあります。これこそ往生がハッキリする証拠ではありませんか。


答え


親鸞聖人は、他人の往生も断言されています。七高僧を初め、聖覚法印、隆寛律師、明法房などです。以前にあなたが出した『教行信証信巻』の略した箇所「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、弥勒菩薩が仏に成るのがいつなのかを断言されています。仏智でなければ判らないことで、『菩薩処胎経』に説かれてあることを親鸞聖人はそのまま断言されただけです。
参考までに、『教行信証』で「まことに知んぬ」と断言された箇所は、ほとんどが聖教の解釈上での話で、理解できたの意味です。もちろん獲信したことで難しい聖教が理解できるようになることはありません。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)



問い


親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄)と仰っているように、阿弥陀仏に救われたなら一切が障りにならぬ絶対の幸福になるのですから、その自覚が必ずある筈です。


答え


『経』にのたまはく、<十方の無碍人、一道より生死を出づ>と。<一道>とは一無碍道なり。<無碍>とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。」(浄土論註)
十方の無碍人」とは仏のことですから、十方諸仏は念仏と言うただ1つの道によって迷いの世界を出られて仏に成られた、ということです。
したがって、「念仏者は無碍の一道なり」は、阿弥陀仏に救われた念仏者は仏になるただ1つの道を歩んでいることを顕わされたものであって、絶対の幸福というような幻覚体験があることを仰ったのではありません。



問い


弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」(歎異抄)と仰っているように、「摂取不捨の利益」にあずかったら絶対の幸福になるのです。


答え


前にも言ったように、「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(正信偈)の通りで、「摂取不捨の利益」にあずかっても、煩悩によって阿弥陀仏を見ることができないのです。救われたら、諸仏や菩薩や神などが見えるようになる訳でも判るようになる訳でもありません。要するに現生十種の益を獲たからといって、それが判る境地になるのではありません。


by shinrankaiuso | 2014-09-26 19:22 | ⑩法の深信について

浄土真宗親鸞会のデタラメ教義を暴くブログ


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